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2007/6/20/ yokohama
「街角について語るとき」

街角について語るとき、人は時に傲慢になる。
ニューヨークのブルックリン、まったく同じ街角の写真を四千枚以上撮り続けた男がいた。
男は毎朝同じ場所に立ち、まったく同じ場所にカメラを据え置き、
そして一日も休むことなく四千日、その同じ街角の写真を撮り続けた。
ある日その膨大な写真のファイルを友人に見せ、男は得意気にこう言った。
「これは俺のささやかな場所の記録なんだ。何てったってここは俺の街角だからね」

街角について語るとき、人はいつも曖昧になる。
そもそも街角には、いつだって名称が存在しない。
通りや交差点、陸橋や遊歩道には名称が存在するというのに、
「目白街角」とか、「スクランブル街角」とか、「権ノ助坂街角」だとかは言われない。
「いつも黄色い旗を持つおばさんのいる街角」だとか、「やたら人通りの少ない街角」だとか、
あるいは「哀しき街角」だとか「君住む街角」だとか、油断をすると歌の題名にまで用いられてしまう。
「初めて彼女と出会い、そして別れ、再び再会し、愛を誓った、そんな恋人達の街角」…
そんな風に、街角について語るとき、人はある種の思い入れを持ち、そして何故だか詩人になる。

だからだろうか、街角について語るとき、僕は密かに警戒する。
そもそも街角は、いったいどこにあるのだろうかと。街のどこに? 角のどこに? 
もしかしたら「楽園」のように、誰かが勝手に幻想を抱いた場所なのではないだろうかと、
街角そのものの存在を、僕はときどき疑いたくなる。

それでも確かに、この世界にはあまりに無数の街角が存在していることも知っている。
相変わらず正しい名称は与えられず、人の思い入れによってのみ語られながら、
新たな出会いや縁を結ぼうと、どこかの街の、どこかの角に張り付きながら、
人々が訪れたり、通り過ぎるのを待っている。いつか誰かの街角となるために。いつも誰かの街角であるために。

街角について語るとき、僕はこうして饒舌になる。
大好きな映画、ポール・オースター脚本の「スモーク」の中で、
ハーヴェイ・カイテル演じる主人公がウィリアム・ハートに語ったように、
「ここは俺の街角だからね」と言えるような、そんな自分だけの街角に、いつか出会ってみたいと思いながら。

× × × × ×

2008年1月のブログから引っ張りだしてきました。
クリスマスの時期になると、何故かこの「スモーク」という映画を思い出すのです。

このphoto essayの序文として…
これからも過去のブログから転載する予定です。